私は、8月6日を知ってからとても人生が変わりました。1945年の8月6日。広島の晴れわたる空にまぶしく光るものが、落下しました。これが人類史上初めて投下されたともいわれる「原子爆弾」です。
空の下にいた人は、一瞬で灰と化しました。やがて炎と、泣き声、さけび声が街全体をおおうかのように飛び交い、広がりました。原爆がさく裂する直前まで確かに生きていた、家族、兄弟、友達は原爆によって奪われていき、遺族には深い恨みと、おさえきれないほどの悔しさを残しました。
私が原爆を知ったのは、小学2年生の時でちょうど、夏休みでした。お母さんが戦争の、「ドキュメンタリー」を見ていて不思議に思ったところから始まりました。よく見てみるとテレビには、ケガをして包帯をまいている少女や、焼け野原になって廃虚化した広島が映しだされていました。それを見た時の当時の私は、何が起きたのかよくわからず、戦争の意味もあまり深くは、考えていませんでした。ところが月日がたったころ、地図帳を開いた時に広島の原爆の見出しを発見しました。そこには、人類史上初めて投下された、原爆により、20万人以上が亡くなったということが記されていました。その時、小学4年生だった私は、とても原爆に興味をもち、平和について学ぼうと動き出しました。
まず、小学校の図書館で原爆の本や戦争の本を借りました。「広島をのこす」という本をよく読んでいた記憶があります。そして、その本の内容や自分の印象に残ったページの部分を、ノートに書きました。原爆資料館に展示されている被爆者の方々の遺品なども、本で見ながら亡くなった人、一人一人の人生を胸に刻み込んでいきました。
やがて、修学旅行でも原爆の地を訪れ涙が止まりませんでした。同じ人間がこんなにも尊い人間の命を奪っていくのに対して、恐ろしさを感じました。「もうこんなことが起こることはない」と、自分に言い聞かせようとしても心のどこかではまた、この惨状がくり返されるのではないか、とおびえている自分がいました。
今、中学2年生の私は、原爆の語り部になりたいと思っています。そのために、原爆の映画や、アニメ、取材動画などを元に自分の手でつくること出来る平和について考えています。今もなおウクライナとロシアは戦争を続けています。3年以上もの間、核の脅威と戦争に支配された人々は自由を手にすることさえできないまま命を落としています。
原爆投下から80年また新たな命が生まれると共に、被爆者の方が一人、二人と旅立っていきます。次世代に原爆を伝えられるように周りにも家族にも、この出来事に関して目を背けてほしくないです。
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