− 伯耆路の懐走 −
10月4日、倉吉市営陸上競技場を発着点に行われる「日本海駅伝競走大会」が35周年、「くらよし女子駅伝競走大会」が30周年のそれぞれ節目を迎える。伯耆路で全国の強豪が健脚を競い、年末の都大路の前哨戦として定着した両大会から名ランナーが誕生した。高校時代に走り、現在は一線で活躍するアスリートや指導者に思い出などを聞いた。
|
21回くらよし女子駅伝で区間2位
ヤマダ電機 西原加純
2015/9/27
|
「駅伝は一歩一秒が大事。少しでも前でたすきを渡すため、最後まで走り抜くことが大切」と語るヤマダ電機の西原加純 |
一歩一秒を走り抜くこと
8月の世界陸上北京大会女子1万メートルに出場した陸上長距離界のヒロイン、西原加純(26)。宮津高(京都)時代、くらよし女子駅伝には3年連続で19〜21回大会に出場し、21回大会では1区区間2位だった。「レース終盤の上り坂は鮮明に覚えている。必死でついて上った」と当時を思い出す。
◇
くらよし女子駅伝は、11月初旬にある全国大会の京都府予選の前哨戦。全国から強豪校がそろう大会で、チームの現状を知り、他校の強さ、実力を計ることができるため、重要視して走った。
3年間、1区を任され、記憶に残っているのはレース終盤の急勾配の上り坂。初めて見た時は上れるかと不安になったほど。
|
くらよし女子駅伝の21回大会で1区を走り、区間2位だった西原加純(中央) |
区間順位を見ると1位から3位までのタイム差は5秒。きつかったことだけは今も鮮明に覚えている。たすきを渡した後輩から「顔がひどい」と言われたので、本当に過酷な坂だったのだろう。
大学時代はけがが多く、走れなくてつらい思いを味わい、何度もやめようと思った。でも走ることをやめたら私には何も残らない。多くの人の応援と、走る姿を見たいと言ってくれる人のために、自分で気持ちを奮起させて乗り越えてきた。
今年は世界陸上に初出場。最高の大会に自分がいるだけで楽しく、珍しく緊張もせず、レースを楽しめた。
でも今回は出ただけで、結果を残せなかった。もう一度、世界の舞台に立って、最後まで勝負できるよう世界との差を縮めたい。日本人でも上位に食い込む可能性はあるし、もっといける自信がある。タイムを縮めるために持久力とスピードを高める必要がある。
駅伝は一人じゃない。一歩諦めるだけでその一歩で負けるかもしれない。一歩一秒を大切に最後まで走り抜く。前の選手が勢いよく入ってくれば、次の選手の活力にもなると思うから。
|
西原加純(にしはら・かすみ)1989年3月1日生まれ。京都府出身。宮津高から仏大に進み、2009年ユニバーシアード1万メートルで金メダル、5千 メートルで銀メダルを獲得。11年4月にヤマダ電機へ入社。同年の全日本実業団1万メートルで初優勝し、14、15年の日本選手権も制した。世界陸上北京 大会の女子1万メートルで日本勢最高の13位。1万メートルの自己ベストは31分53秒69。 |
第22―24回日本海駅伝に出場
住友電工陸上部 竹沢健介
2015/9/26
|
高校時代、日本海駅伝で走り、都大路、箱根、世界を経験した竹沢健介。これから大会に臨む高校生に「失敗を恐れず挑戦してほしい」とエールを送る |
レベルを知る重要な大会
北京五輪5000メートル、1万メートル日本代表の竹沢健介(28)=住友電工=は報徳学園高(兵庫)で都大路、早大では箱根駅伝でチームのエースとし て活躍。今年5月の関西実業団5000メートルを制し、2度目の五輪を目指して精進している。日本海駅伝には2002年〜4年の第22〜24回大会に出場 し、「レベルを知る重要な大会。その後の原動力の一つにもなっている」と振り返る。
◇
報徳学園高時代に3年間、出場した。夏の合宿後、少し疲れた状態で臨む試合だった。駅伝シーズン前の大会で、チームは前哨戦のように位置づけていたので、自分自身も「さあ、やるぞ」という気持ちで出ていたと記憶している。
|
2003年の23回大会で報徳学園高の1区を務めた竹沢健介(左) |
高校生にとっては、全国高校駅伝が一番大きな目標だが、日本海駅伝で全国レベルのチーム状況が見られ、自分たちがどのレベルにあるのか知る上で重要な大会だった。
これから大会に臨む高校生には、失敗を恐れずチャレンジしてほしいと言いたい。不調の時には原因を突き詰めていくしかないと思う。なぜなのかを自問自答して答えを導き出すことが一番の近道。精いっぱいチャレンジした上での失敗は次につながる。
これまでで一番印象に残っている大会は、やはり08年の北京五輪だ。独特の雰囲気。世界陸上と比べても選手や観客の人数も多く、地響きのような歓声の中でピッチに立ったことがなかったので感動した。緊張感や高揚感があった。
来年、5000メートルと1万メートルのリオデジャネイロ五輪選考会がある。競技をやっているからには、一番上を目指したいと思っているので、それが当面の目標。日本海駅伝での経験も大きな原動力の一つになっている。もう一度日本代表になれるよう頑張りたい。
|
竹沢健介(たけざわ・けんすけ)1986年10月11日生まれ。兵庫県出身。報徳学園高(兵庫)で2004年に都大路に出場し、早大では箱根駅伝で07〜09年の3年連続区間賞。08年には北京五輪男子5000メートルと1万メートルの日本代表。エスビー食品を経て住友電工に所属。自己ベストは5000メートル13分19秒00、1万メートル27分45秒59。 |
第5回日本海駅伝で区間賞
トヨタ自動車九州陸上部監督 森下 広一さん
2015/9/25
|
「自分にとって、陸上の方向性をつかんだ大会だった」と振り返るトヨタ自動車九州陸上部の森下広一監督 |
「もっと上」芽生えた思い
バルセロナ五輪マラソン銀メダリストで、現役引退後は後進の指導に当たっている森下広一監督は高校時代、日本海駅伝の第5回大会に出場。2区(3キロ)で区間賞を取った思い出があり、「県内のレベルで終わりたくないと感じ取れた大会。もっとドラマのあるレースがしたいと思った」と振り返る。
◇
区間賞を取った第5回大会当時は、わかとり国体の直前。国体選手の合宿所から直接会場入りし、レース後はとんぼ帰り。戻ったらインターバル練習と、疲れた思い出がある。
レースは結構、後ろからのスタートで、追いかけて何人か抜いた。それでも世羅(広島)とか有名校の選手が前にいる。高校の時はそれほど大したことない選手だったので、強い奴がいるなぁと。
当時、由良育英(現・鳥取育英)の壁に阻まれ、都大路には出場できなかった。日本海駅伝で全国レベルの力を知り、「鳥取県のレベルでは終わりたくない」と感じ取れたことは大きかった。
|
八頭高時代の1985年、日本海駅伝第5回大会2区で区間賞を取った森下さん(左から2人目) |
それ以上に大きかったのは適性を確認できたこと。作戦もなく、一生懸命に走っただけで、起承転結のドラマのあるレースがしたいと思わせてくれた。
高校卒業後、旭化成に入社した。宗猛監督に大きな目標を持って取り組む大切さを教えてもらった。トヨタ自動車九州陸上競技部監督になり、指導者の苦労がよく分かるようになった。しかし、指導者を困らせるぐらいの選手でないと成長しないとも思う。
駅伝チームを育成し、全日本実業団駅伝に出場している。それほどでもない選手が突然力を出すなど、単純に足し算ではないところが魅力。今後も力を入れていく。
併せてマラソン選手も育てたい。今春、米子松蔭高出身の江田悠真が入部したが、身長180センチを生かし、日の丸がつけられるような選手になれば。故郷の鳥取県がマラソンの輩出県と呼ばれるようになるのが夢だ。
|
森下広一(もりした・こういち)1967年9月5日生まれ、鳥取県八頭町出身。八頭高時代に本格的に陸上をはじめ、3年生時には3000メートル障害で8分59秒5の高校日本新=当時=をマーク。86年に旭化成に入り、92年のバルセロナ五輪男子マラソンで銀メダルを獲得。現役引退後の1999年からトヨタ自動車九州陸上競技部の監督として後進の指導に当たっている。 |