− 駆け抜けろ チャンピオンロード−
1981年に最初の号砲がとどろいて30年。数々の名ランナーが山陰の地で健脚の足跡を刻んだ「日本海駅伝競走大会」(鳥取陸上競技協会、新日本海新聞社主催)は今年、第30回の節目を迎えた。都大路の前哨戦として定着した高校部門では、かつては選手として、現在は指導者として山陰・伯耆路を踏む駅伝人も多い。過去、現在、そして未来へ−。10月3日、倉吉市営陸上競技場でのレースを前に、たすきが結ぶチャンピオンロードの“証人”たちの思いに迫る。
考え、自立した選手に
山口哲・須磨学園高(兵庫)監督=報徳学園高出身=
2010/10/2
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ミーティングでその日の練習のテーマを投げ掛け、それに対する選手自身の目標を考えさせる。山口監督(中央)は、自立した選手になるには自分で考えることが大事だと考える |
「嫌そうな顔して走ってるよー。そんな顔して走るなら1人で走るかー?」
学園のグラウンドで8人ほどが集団でジョグを続けていた。そのうちの1人に向け、大きな声が響いた。
集団で走るのは力が付くという。苦しくなっても自分でペースダウンできないからだ。「強くなりたい自分がいて、そうなれる練習をしているのに、嫌な顔をしている。それは自分の力になることを望んでいないということですからね」
須磨学園高に赴任した2000年当時は、共学になって2年目だった。男子陸上部の顧問となったが、部員は1人。「いつか駅伝チームを組めたら」と胸に秘めながら取り組んできた。
昨年、2度目の日本海駅伝挑戦で2位。選手それぞれが区間終盤の最も厳しい地点で粘りに粘るレースを展開した。「夏場を頑張ってきた成果が願っていた通りに出せた大会」。その経験を糧に、県予選で西脇工高を破って初めての都大路切符をもぎ取った。
都大路は6位。上出来と言えそうだが「西脇工を破ることだけ考えていたから、その先は未知の世界。あっという間に終わってすごく悔しかった。『やっぱりこの大会で勝ちたいんだ』と分かりました」。今年も、もちろん狙っている。
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1991年の日本海駅伝第11回大会第1中継所でたすきを受け取る現役当時の山口監督(右)。貧血を克服し、2区区間1位と力走した |
自身は、中学3年の近畿大会で優勝したのをきっかけに駅伝の面白さを知り、報徳学園高へ進学。1年生の時にチームは都大路にブロック代表で出場し、登録メンバー10人の一員として全国制覇の歓喜を味わった。だが、その翌年は西脇工高に県予選で敗れ、都大路出場を阻まれた。
決意を固くして臨んだ高校最後の年。夏場に極度の貧血に陥り、思うように体が動かなくなった。治療を優先しながら練習も続けて迎えた「日本海」。2区で区間賞を取る走りができ、「これで西脇工と戦える」と自信になったという。
高校時代の経験は「すべて財産」と言い切る。3年生の秋もライバルを倒すことはできず、都大路を走ることは3年間なかったが、駅伝という目標設定があったおかげで自分のことだけでなく、チームの一員として常に前を向いて取り組むことができたからだ。
「日本海駅伝は貴重なんです」と言う。なぜか。
発着点付近にチームメートが集まり、待つ間にレース展開が分かる周回コースと違って、「日本海」は各自のスタート地点に自分が責任を持って到着し、自分のチームや前の走者がどんな走りをしているのかがほとんど分からない。自ら考え、最大限の力を発揮するための準備を自分で進める−。そんな環境に置かれるのがいいという。
「そういった考えを常に持ちながら練習や生活、試合ができるようになっていけば、見て感動する走りがきっとできます」。指導で伝えたいのは、自立した選手になること。チームはグングン成長中だ。今年の「日本海」でも、“心の走り”がはぐくまれていく。(中西理恵)
(おわり)
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【プロフィル】やまぐち・さとし 1973年6月30日生まれ、37歳。兵庫県高砂市出身。荒井中(兵庫)−報徳学園高(兵庫)−法大。大学卒業後、明石市の外郭団体、神戸市内の公立中学校教諭などを経て2000年から須磨学園高(兵庫)。担当教科は社会科(日本史)。 |
連覇の課題洗い直す
岩本真弥・世羅高(広島)監督=世羅高出身=
2010/10/1
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岩本監督(左)は「連覇を狙えるという立場はうちだけだから」と指導に熱を込める |
「連覇の権利があるのはうちだけ。しっかり準備を進めたい」。昨年の都大路で6度目の優勝を果たしたチームを再び頂点へと導くために、昨年初優勝を飾ったこの日本海駅伝が一つの鍵と位置付ける。「1、3、4区の長い距離を走れる選手が控えも含めて4人は必要。今回は1区で一人、適性を試してみたいと思っている」。ライバルたちの戦力をにらみながら、全国に向けた課題を洗い直すつもりだ。
「いろいろ波がありましたよ」と、チームの指揮を執った7年間を振り返る。3年前の冬。連覇が懸かった都大路の本番前日に、エース鎧坂(現・明大)の疲労骨折が分かった。混乱の中、チームはバラバラとなり、10位でゴールした。
駅伝の怖さや連覇の壁を痛感し、選手も監督自身も大きなショックを受けて「春先まで引きずっていた」という。だからこそ「その悔しさを味わった当時1年生だった子たちが、3年生になって全国制覇してくれたのがうれしかった」。逆境からはい上がった強さに、胸を打たれた。
「世羅が全国トップを狙える安定期に入っていたころだった」という現役時代は、高校2、3年と続けて都大路を走った。「年間スケジュールになかったが、いきなり監督に『鳥取に行くぞ』と言われた」。1982年の第2回日本海駅伝に2年生で出場。4区で区間2位だったが、「あんまりいい走りではなかった記憶がある」と苦笑する。
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世羅高の一員として力走する現役当時の岩本監督 |
「自分で考えられなければ、駅伝の単独走はできない」が、自らのランナー経験で得た持論だ。だから、選手への指示は最低限にとどめ、自分で考えさせるようにしている。チーム内での自分の役割が考えられる選手になることも要求する。
「『自分は遅いからだめ』と終わってしまうのではなくて、チームの中での存在意義をちゃんと見つけることが大事。それがチームのまとまりになる」
都大路を第1回、第2回と制して以来の連覇を懸けた勝負の年。前哨戦の「日本海」で、ディフェンディングチャンピオンの走りに注目が集まる。険しい道ではあるが、「小粒だけど、層が厚い。やるからには少しでも上にいきたい」と力強く話す。伝統のよもぎ色のシャツに赤パンツの軍団が、今年はどんなドラマを見せてくれるのだろう。
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【プロフィル】いわもと・しんや 1965年7月17日生まれ、45歳。広島県出身。河内中(広島)−世羅高(広島)−福岡大学体育学部。大学卒業後、広島県内の中学校教諭を経て2003年に世羅高へ赴任し、男子監督に就任。10年から女子監督も務める。同校保健体育教諭。 |
指導者の醍醐味知る
平山征志・報徳学園高兵 庫監督=報徳学園高出身=
2010/9/30
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母校の陸上部を指導する平山監督(右)。練習場所は昔も今も学校の近くの武庫川河川敷だ |
恩師・鶴谷邦弘監督の後を受け、母校の監督に就任して6年目。報徳学園高と日本海駅伝のつながりは古く、1981年の第1回大会に招待出場して監督自身、第1回大会で1年生アンカーとして1位でゴールテープを切った。「日本海」の勢いを保ったまま、チームは県予選、都大路と王道を疾走。高校3年の83年には都大路1区で区間賞を奪って自身2度目の日本一の座に就いた。
「日本海」の記憶は、2年生の時に三朝温泉を通る2区を走った第2回大会が鮮明だという。「私のこの学年は、日本海駅伝からやっと始まったようなものでしたから」。2年生に上がってすぐ、何の前触れもなく足が痛み始めた。原因を突き止めようと、あらゆる病院を駆け回った。が、結局分からずじまい。インターハイ出場を決めていく同級生を横目に、筋力トレーニングしかできなかった。
不安を抱えたまま3カ月以上が過ぎ、痛みが徐々に薄れて走れるようになってきた。復帰戦として照準を合わせたのが「日本海」だった。
温泉街を無我夢中で駆け抜けた。「ああ、走れた」。何より欲しかった、治った実感。チームは連覇し、再起の証しとなる区間1位を再び手にした。
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全国制覇を果たした翌年の1982年、2連覇を目指して走り込む報徳学園高の選手たち。右から2人目が現役当時の平山監督 |
高校駅伝から30年。指導者となった今、駅伝の醍醐味(だいごみ)は「部員みんなに居場所があること」だと感じている。
駅伝はレギュラーが頑張れば回るというわけではない。補欠や付き添い係、ポイントとなる位置での応援係。一人でも欠けるとじわじわと影響が広がり、結果となって表れる。約束を守り、あいさつや気配りを欠かさない。そして全員が同じ目標に向かって1年間を過ごす。「そういう当たり前のことを当たり前に全員がやる。それが高校駅伝で学んだことなんだと、今だから分かります」
3年間、裏方で終えた子もたくさんいた。そんな子たちが「先生、大学でも駅伝をやることにしました」と言ってきてくれると、胸にこみ上げるものがある。
兵庫で西脇工高と“2強時代”を築いたチームは、近年は須磨学園高の急伸もあり、ライバルの陰に隠れる戦いが続く。
「1番を取らせてやりたいし、全国大会に行かせてやりたい。今の自分に何かが足りないから、それができていないんだろう。でも駅伝を嫌いにならないで卒業してくれたってことも、自分には大事で、喜びになっています」
生徒の成長が手に取るように、そして目に見えて分かる。自問自答の繰り返しの中で、指導者の醍醐味が、少しずつ分かり始めている。
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【プロフィル】 ひらやま・まさし 1965年11月3日生まれ、44歳。神戸市出身。飛松中(兵庫)−報徳学園高(兵庫)−日体大。大学卒業後、三田学園高から92年に報徳学園高に赴任。コーチを経て2005年から監督を務める。同校保健体育教諭。 |
都大路へ手応え確か
北野孝英・豊川高(愛知)監督=愛工大名電高出身=
2010/9/29
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豊川で指揮を執って6年目の北野監督(中央)。「陸上を好きになってもらう」という思いを大切にしながら、選手たちと初の都大路を目指す |
夕暮れ時の豊川市、稲荷公園。それまで選手たちが走っていた1周約500メートルのコースを見つめながら、「先生だけには絶対ならないと思っていたんですけどね」。笑って話す柔和な表情とは裏腹に、指導者として今、熱く燃えている。
実業団のトヨタ自動車で活躍後、会社に残って充実した生活を送っていた2005年。社外での陸上指導活動が縁で監督就任を要請された。「どうせならもう一度勝負の世界でやるか」と転職を決意した。
指導者になって6年目。うれしかったことの一つが、07年の日本海駅伝で6位に入ったレースだという。「1年目は90番程度と弱かった。そのときの1年生2人が3年生になって迎えた大会だった」。4区で4位につけ、5、6区はその3年生。背後に強豪校が迫る中、「正直、何人抜かれるかなあと思った」。しかし、その目に飛び込んできたのは、4位のままたすきを運んできた3年生の姿。いつの間にか成長していた選手たちに、目頭が熱くなったという。「急に来るんですよね、指導者の喜びって」
日本海駅伝には、選手としても愛工大名電高時代に1984、85年と2度出場している。84年は5区で区間賞を獲得。「ちょうど国体優勝の数日後。勢いがあった時期で、そんなに走れた感じはなかったけど、得意の下りだったから」と振り返る。85年の4区の話をしていると、「そうそう、民泊ですごくお世話になったなあ」と懐かしんだ。
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愛工大名電高の主力として活躍した現役当時の北野監督 |
「駅伝は毎回違う状況でたすきをもらう。それに対応できる走りが求められるから難しいけど、味方の走りに励まされたり、いろいろな面でモチベーションを高く持てる」と駅伝の魅力を話す。
駅伝激戦区の愛知で、チームは初の都大路切符を目指す。県大会では強豪・豊川工高の後じんを拝して3年連続の2位。だが「同じ2位でも違う2位」だと北野監督は言う。がむしゃらに2位になった3年前、力はあったが空回りした2年前、力が十分に出せた昨年。タイム差は3分から1分に詰めた。そのライバルと、日本海駅伝で相まみえる。「県大会1カ月前に実戦があるのは大きい。選手の距離適性や課題も見つかるし、今の段階での力関係を測りたい」
「日本海」に始まり、県予選、そして監督として初めてとなる都大路へ−。一本の道が、視界の先に開けつつある。「今までで一番」。確かな手応えとともに。
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【プロフィル】
きたの・たかひで 1967年9月30日生まれ、42歳。奈良県出身。神丘中(愛知)−愛工大名電高(愛知)−順大体育学部。大学卒業後、98年までトヨタ自動車で実業団ランナーとして走り、93年1500メートル日本ランキング1位。2005年に豊川高男子駅伝部監督に就任。同校保健体育教諭。
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