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「よし、がんばってみよう」なぜ僕は、できもしないことに向かっていくのだろう。だめな結果に終わるとわかっているのに…。なぜ僕は、恐れていることに飛び込んでいくのだろう。「怖い、怖い」と叫んでいるのに…。まるで、自分を試しているかのように…。 僕には、シェルビーと同じようにおばあちゃんがいる。僕のおばあちゃんは、とても健康に気を遣っている。 「ビタミンCが入っているから食べなさい」「スタミナがつくから食べなさい」 毎日夕食の時間になると、おばあちゃんは決まったように何度もこう言ってくる。おばあちゃんには悪いけど、いつも僕はうなずくばかりで大半は聞いてはいない。同じことを何度も言うし、長々と話し続けるし、ちょうどシェルビーと同じようにおばあちゃんがうっとうしくてたまらなかった。 でも、そんなおばあちゃんに僕は感謝しなければならないことがある。僕は去年の夏、テニスの県大会に出場した。僕ははじめやる気がなかった。なぜなら、一回戦の相手は、全国で優勝できるような実力者だったからだ。県大会当日、元気のないまま僕は玄関を出ようとした。その時おばあちゃんが、急ぎ足で僕のそばにかけよってきて、「いいかい。負けてもいいんだからね。がんばって行っておいで」と優しい声でそう言ってくれた。おばあちゃんの言葉には、何か大きく不思議な力が込められていた。僕はうれしくなり、元気よく「うん!」と言った。家中にひびき渡るような声で。試合は負けたけど、でも、一ゲーム取ることができた。おばあちゃんのおかげだと思う。僕は今、おばあちゃんに感謝している。ありがとう。 シェルビーとシェルビーのおばあちゃんは「いくつになっても夢を追い続ける」と言っていた。僕は瞬時に父を思い浮かべた。僕の父は、もうすぐ四十八歳になる。父はこの歳になり、ある試験に合格するため最近になって勉強をし始めた。そう、父の「夢」は「試験に合格してある資格を取り、地域の人の役に立つ」ということなのだ。僕は、「勉強は、大人になればしなくてもよい」とばかり思い込んでいた。しかし、毎日机に向かっている父の背中を見ていると、そうではないということに気づかされた。「いくつになっても、いろいろな形で勉強はしなくてはならない。生きていること事態が学ぶことなんだ」「何歳になっても、夢は持ち続けるんだ。だから父さんは、夢に向かって勉強しているんだ」と、父の背中は僕に語ってくれた。だから僕は、欲張って毎日夢を持って過ごしている。毎日違った夢を。例えば、「今日のテストで百点取る」とか、「今日のテニスの試合で全勝する」とか、「将来こんな人になりたい」とか…。僕にしてみれば、「夢」=「目標」なのだ。小さな夢もあれば、大きな夢もある。だけど僕は、わざと大きすぎる夢を持とうとしている。自分の中で「夢は大きいよりも、大きすぎる夢の方が良い」という考えがあるからだ。大きすぎる夢だからこそ、たくさんの努力をし、たくさんの悔しさが味わえるのではないだろうか。 この本の中で、シェルビーのおばあちゃんは「あなたの“光”をともしなさい」という言葉を何度も口にする。僕にとってこの言葉は「あなたの“夢”に向かって挑戦しなさい」というふうに聞こえてならない。 僕は、父からも教わった。「挑戦すること。それは、夢をつかみ取るためになくてはならないこと。そして、人生の中で常に隣り合わせであること」だと。そして、僕のおばあちゃんからも教わった。「一人で立ち向かうことは難しい。けれど、励ましてくれる人が一人でもそばにいてくれれば、力は大きくなる」ということを。日頃、うっとうしいと思っていたおばあちゃんの言葉の中には、いつもいつも励ましの言葉があった。この本を通してそのことにも気づかされたのだ。 シェルビーが絵のコンテストに挑戦し、シェルビーのおばあちゃんが大学に挑戦するように、僕も何か大きなことに挑戦していきたいと思う。自分の力を試すために。そして、努力して努力して夢をつかみ取りたい。僕は、「挑戦」と「夢」との間に「努力」があるということを忘れない。決して簡単なことではない。難しいことだけど、僕は途中であきらめたりなんかしない。僕は、小学校の卒業文集の「好きな言葉」の欄にもしっかり書いていた。「挑戦」「努力」の二文字を。 << 「受賞者のみなさん」一覧へ |
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