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書店で『水底の棺』という題名に吸いよせられるようにして、この一冊を手にした。「どんな話なんだろう」と帯を見ると、「池は生き返る きっと生き返る」という文が目に飛び込んできた。「池?」一体何のことだろうと、ますます興味がわいてきた。家に帰るとさっそく読み始めた。「こんなに厚い本、何日かかるかな」という不安はすぐに吹きとんでしまった。あまりのおもしろさに、いつの間にか平安時代にタイムスリップしていた。 本の表紙で、いきいきとした表情で走っている子がこの物語の主人公、小松である。両親のいない小松は、父の知り合いの松を本当の親として慕い、貧しいながらも幸せに暮らしていた、松が事故で死ぬまでは。それからの小松の人生は、まさに波乱万丈という言葉がぴったりだと思った。 身売りされて京の都に出てさまざまな人に出会った。しばらく生活を共にした盗賊のサスケ。盗んだもので命をつないでいることはわかっていたが、押し入った家の老婆を目の前で殺すサスケは「人殺し」になりさがっていた。そのショックから、京で路頭に迷っていたときに、親切にしてもらった僧の蓮空を頼って東大寺に行く。そのころ、東大寺は源平の合戦のあおりを受けて、主要な建物がほとんど焼失していた。その修復工事を、俊乗房重源を中心にやっている最中だった。僕と同じ年頃の小松が、老婆を殺した罪を償うために寺に行くなんて、小松は自分を、良心を見失わずに生きていることがわかる。そこで出会った宋から来ていた恵海とは、人生を語り合える友となった。ここでも小松は、安らかな日々を送っていたはずだ。生きることに追われる毎日を送っていた小松に、たくさんの知識を与えてくれた蓮空、宋の文化を熱く語ってくれた恵海。小松の世界は広がり、人生が輝きはじめたと、僕までうれしくなった。 しかし、幼なじみのゆうの行方をさがしたいと想いがつのり、また京へ向かう小松だった。「安住の地を手放さなくても」。これから待ち受けている運命を想像しながら、読み進んでいった。やっとめぐりあえたゆうは、再会したサスケの屋敷にいた。「河内に帰りたい」というゆうと、ふるさとを目指す小松は、ゆうとの未来を語り合った。そこには、米や野菜が豊かにとれる河内があった。しかし現実は厳しいものだった。ふるさとを目前に死んだゆうは、この世に思いを残し、その思いを小松が受け止めたから、ゆうの魂は小松と一緒にいたのだろう。 河内にある狭山池は、あの清少納言が『枕草子』で趣のある有名な池としてあげている。日本最古のダム式人造池として、飛鳥時代に誕生してから、ながめの美しい池として人々に親しまれてきた。それだけでなく、人々の暮らしを支え、作物を豊かに実らせてきた池である。しかし、平安末期の小松の時代は野草の生い茂る泥沼に変わりはててしまっていた。松が死んだのも、ゆうの父親が死んだのも、この池のせいであるとの思いを小松はもち続けた。「松が死んだ池もこれで見納めと思えば、正視することもできた」「はるかに狭山池が見えたときには、さすがに胸にこみあげるものがあった」。小松にとっての池はどんな存在だったのだろう。何人もの村人の命をのみ込んだ池だが、生まれ育ったふるさとを象徴する存在だったのだろう。サスケは「池にあいそがつきたんや…狭山の人間ならわかるやろ?」と池から逃げ出した人間だ。しかし小松は、「米も野菜もたんととれるようにせな。池を直さな」と池と正面から向き合う決心をする。 大工事をするにあたり、重源から石棺を準備するように指示される。墓を掘り起こすことに反対する村人をよそに、たった一人で石棺を掘り始める小松。「今をのがせば狭山池はよみがえらない」との想いだけが、小松を支えていたのだと確信した。工事を終え、昔のように水をたたえる池に、松やゆうの父親、同じように事故死した多くの村人の命を思った。「池につながった人が死んでも、池はずっと生きつづけるんやなあ」という小松の言葉は、僕の心にずっしりと残った。水底に沈む棺もまた、この池によって命をふきこまれた。この棺に眠っていたであろう貴人の命も何百年の時を経て、この池と生きつづけると思うと感慨深いものがある。 鎌倉時代に大がかりな工事をしていることはわかっていても、僧重源の手によるものだとわかっても、この工事にかかわった小松たち庶民の名は後世には残らない。しかしこの物語から、平安から鎌倉の時代を生きた「小松」が、確かな足どりを残していることが実感できた。小松も重源も同じように、命の炎を燃やしていると思う。いつの時代も地に根を張って生き抜いた一人一人の生きざまがあることに、改めて気づかされた一冊であった。 << 「受賞者のみなさん」一覧へ |
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